川上村は先日、-22℃まで下がったらしい。ついに、-20℃台になってしまった。
千曲川の川面からは蒸気霧が発生してさらに寒そうな景色になっていたらしい。らしいというのは1月の22日以来、川上村には行っていないから。
6年間、臥せていた父親が死んで、いろいろと忙しかった。
しかし、すべて終えてみると何だか昔の事のようにも思えて来る、そんな濃密な10日間だった。
生まれは北海道の帯広、昭和も始まったばかりの3年(1928年)の端午の節句(5月5日)だから、生まれた子供の名前は"節男"。節男クンの生家は節男、小学生の頃に穀物相場に手を出してスッカラカンになり一家は離散
喰いぶちの宛がないから、死んだ父親の骨を持って遠縁をたよって節男クンは満州へ、先方だって喰うもんが無い時代だったから、ずいぶんヒドい目にあったらしい。その後、食べる為に戦争末期に志願入隊。入った軍隊は、負け戦が濃厚な時期だけに、こっぴどくシゴカれ、後は特攻機に乗るだけと広島は呉に転属、そこで幸運にも終戦となる。呉から大阪、そして東京へと節男クンは戦後の何もなかった時代からファッションを誰もが喉から手が出る程、欲していた時代に東京目指してジリジリと北上を続け、東京に辿り着いたのち、銀座のダイアナ靴店で販売を始める。
売れたんでしょう、きっとその頃は。
節男クンは閃く。作る側に回ったらもっと稼げる....
そして、いきなり浅草で職人抱えて自分でデザインした靴を作りはじめる、いわゆる製靴業に突如転向。オリンピック前の高度成長期。作るものはなんでも飛ぶように売れたらしい、その時期に作った靴を納品していた銀座カネマツの紹介で節男クンはとうとう、当時の皇太子妃美智子さんの靴を作る事になる。私が生まれる1961年ころから71年ころまで10年間自分で皇居に出向き採寸、デザイン、製作をしていた。皇居に採寸に上がる前日の、緊張でぶっ飛んだ顔になってる節男くんの顔は家族も笑えない程だったらしい......
そんな元軍国青年とデザイナーという本来交わらない相性の悪い要素を抱えていた節男クン。この皇室御用と呉で飛行機待ちで死ねなかった元軍人としても満足というか美智子妃殿下の足を触ったからか、絶頂に達してしまう。
突如、あっさりと工場(こうば)を閉めて、職人の行き先捜して、古い家財道具をゼーんぶ捨てて、浅草を後にする、向かった先は遠縁が1人いるだけの愛知県の外れにある、まったく未知の農村。その村の小さい山の中腹に自分でデザインした家をたててコレまでの和風なものと違う、ピカピカでモダンな家財道具を揃えてモーターボートまで買い込んで始めた、好き放題な新生活。
その後の人生は骨董もボートも止めて、ゴルフ一筋に打ち込んで、ついに1月31日に83歳でホール・アウト。
こうして、節男くんは戻る場所を持たない人生を生き切った......
ユカリのある場所、仲間、仕事と潔くサヨナラをして見事、節男くんは一度も馴染みの場所を振り返る事なく、新しい場所、仲間、仕事を獲得しながら新しい場所で暮し、そして死んだ。
お父さん、 欲を言やぁキリがないけど、もう充分楽しんだでしょ?
おかげで色んなものを見せてもらえましたありがとう。
(小林)